真空恐怖

公開日:2021年11月25日

空隙が耐えられない……極めて今日的な心性だ。スケジュールが空いているのが耐えられなくて、この前髪を切ったばかりなのに美容院の予約を入れる。特にコーヒーが飲みたいわけでもないのに喫茶店に入る。ひとりの重みが耐えられないから誰かと会う予定を入れる。最初からどこか欠けているわたしたちにとって、その欠けているかに見える部分を埋めようとするのは自然なことに思われる。だからこそわたしたちは誰かへの何かへの感受性を育てることができたのかもしれないし、「困ったときはお互い様」なのであろう。

が、行き過ぎた完璧主義は空白を許さない。いや、完璧主義というよりは、予定外のものが怖く思えてしまう。何かをただ待ち受けるというのは不安を伴うことなのだ。誰かを招き入れる、あるいは自身が誰かに迎え入れられるという、「あそび」の間が許されない。何かが、それが何とは明示することはできない何かが、欠けていて当たり前なのに、好ましくないものに思えてきてしまう。

この傾向は何かを企画したり開発したりする際にも顔を出してくる。特に最先端の技術においてだ。今や、技術的に可能なものは実現されてしかるべきだと思われている。可能と実現との間の距離が見えない。SDGsが言われるようになって久しいが、やっと倫理がその疎隔を担う準備ができてきたのかもしれない。自然を壊してまで実現しなくてもよい、誰かの権利を侵害してまで実現しなくてもよい、と。だが、これもまだまだ準備に過ぎない。先は長いだろう。

さて、このワークスペースも真ん中がぽっかりと空いている。実際にはこのようなオフィスが作られることは稀だろう。オフィスとは、ひとが集まるべき場所であり、オフィスがあるのは都市である。都市では、地価が高く、なるべく空間を効率的に利用せざるを得ない。多くのオフィスでは、そのような「何もない」空間を作る余裕はなく、そんな空間を用意しようなどというアイデアは「あそび」に過ぎないと一蹴されてしまうだろう。あそびの間は、富んでいるものにだけ手が届くものなのかもしれない。
四角形に押し込まれた部屋やものたちを見ていると、まるでこれはExcelのシートではないかとさえ思う瞬間がある。いや、もしかしたらExcelのセルの方が広がりを持っているかもしれない。むやみに結合されたセルたちの厄介さはもしかしたらこの文章を読んでいる人にとっては馴染みのあるものかもしれないが、セルは案外切り取られただけの扱いやすい四角形ではない。「折り返して全体を表示する」ことのない限り、セルは隣のセルの裏に潜りこんでいきもする。セル(cell)には、小部屋や、監房の意味があるが、細胞たちの有機的につながりあう様は、もっと相互に絡み合っているものだ。

監房にいる囚人同士のように、あるいは顔も声も知らないアパートメントの隣人のようにではなく、細胞のように人やものが出会うオフィスは可能だろうか。少なくともヴァーチャルなオフィスでは、空間の制約がない。あるとすれば、どこかのプログラムに書き込まれているはずの制御が、ヴァーチャルオフィスの限界だ。

さてもう一度、このぽっかりと穴の開いたワークスペースへと戻って来よう。ここにいる人たちは空白部分を正視することがなく、視線がその周りをぐるぐると巡るよう配置されている。でも、横目で空白部分は見えるはずだ。その空隙越しに誰かの背中くらいは見ることができるだろう。真空を恐れるわたしたちは、ここの空間が気持ち悪いと思う。不快で、埋めてしまいたいと思う。けれども、そこへと踊り出ることはできそうにない。誰もが視線を少し円の中心に傾ければ、その目線に刺し貫かれることになるだろうからだ。

たとえばプレゼンテーション。どこかの舞台に立ったり、スライドのある側に立ったりしてオーディエンスに向けて語りかけることがある。その際、視線は真っ向から出会う。だから、見ることと見られることとが、ちょうど裏返しの形でくっついているということができる。そのような状況では見たり見られたりすることは安定している。見られるべく行動し、見るべくして見ている。

一方、見られるかもしれないし、見られないかもしれないという状況で人の前に踊り出るのはあまり気持ちのよいものではない。「並列と円環」の章で述べたが、非対称な見られているかもしれないし見られていないかもしれないという状況は、見られている意識のもとに行動する主体を作り上げる。そうなるよりは、自分も見るかもしれないし見ないかもしれない、匿名の視線の渦へと紛れることを選ぶのだろう。それは暗がりに隠れた権力となることを意味する。囚人たちがいるかいないかと恐れているところの、看守の位置に安住しようとすることだ。

同調圧力の図、とでも言ったらいいのだろうか。空白を恐れながらも誰かがその空白を占めることを牽制しあっているようだ。ここに政治を読み込むことは、読んでくださっている方の自由に任せる。これもまた、空間のデザインである。人を、ほぼ座席と同義の、こぢんまりと収まりのよい塊として扱うのではなく、視線という誰かを刺す針ともなりうるような(もちろん慈しむかのようなやわらかい視線だって存在している)ものを持った線状の、あるいは扇形状の存在として扱うこともできるかもしれない。

あなたのオフィスの座席表に、視線の矢印を延長させてみよう。そこがどのようなオフィスか、ほんの少し見えてくるはずだ。

 

〈参考文献〉
・鷲田清一『だれのための仕事:労働 vs 余暇を超えて』(講談社)
・エーリッヒ・フロム, 作田啓一 佐野哲郎訳『希望の革命』(紀伊國屋書店)