真空恐怖に忠実に従って行動したらどうなるか。おそらく際限なく真空を埋めることになるのだろう。
たとえばそれをウルトラバロックという様式に見出すことができる。ウルトラバロックは植民地支配の過程でスペインやポルトガルによって中南米にもたらされたキリスト教やバロック様式といったものが独自の発展を遂げたものを指して名付けられたものである。その過剰なまでの装飾はある種の美学に文字通り「満ちて」いる。どこかを見ていると思ったらその部分が後景に退いてゆき、今度は別の部分が主張を始めるということが起こる。過剰さの中で「地」と「図」は絶えず反転する。問題は何を際立たせるかではなく、つまり何かを強調するために別のものを抑えるということではなく、埋めることそれ自体、さらなる装飾でもって埋めることだからだ。
装飾に装飾を重ねると、さっきはもう埋めたと思っていた余白の中の、さらに空いている部分が目に留まる。そしてそこも埋めてしまう。でもまた足りなく感じられる。そのようにして微に入り細を穿ち、それでも飽き足らずどんどん微視的になっていく。必死に埋める。
運がよければ(あるいは悪ければ?)ふと現実に戻ってくるときがくる。さっきまで手を加え続けていた「作品」を離れて見てはじめて、あまりにも過剰な装飾を施していたことや、その美しさに気が付く。タトゥーやピアスのような身体加工も、ときとしてそのような道をたどる。はじめはちょっとしたおしゃれのつもりで耳朶に開けた14Gのピアスが、ひとつふたつと増え、気づけば指でも通るような大きさに拡張され、あるいは場所を変えて外耳から眉へ、あるいは鼻や臍へ、と孔が増えていく。ピアスを開けたことのある人の中にはこのままもっと孔を開けたらどうなるか、という傾斜を感じたことのある人は少なくないはずだ。自身の身体に「空白」を見出したとき、それは埋めるべきものとして意識される。あるいは部屋の装飾も、人間と外側から作用しあうひとつの環境である。自室がまったくもって各人の内面世界の反映であるなどということはできないが、なぜ、他でもないそのものをそのように配置するのかといえば、そこには実利性以上の、その人の論理があるに違いないのである。
部屋について好きなもので埋めてしまうという言い方はよく為されるが、飾り棚を用意したらそこに何かを置かずにはいられなくなる。本棚を置いたら本がそこに詰まっていてほしいと思う。
……LoooMsも試しに埋めてみよう。ここに掲げた部屋はすべてのマスが何らかのアイテムで埋められている。けれども、そう思ってみるとまだ空いている間が、空間が気になってくる。8人掛けテーブルの四隅にはまだ1マス分なにかをおけるような気がするし、デスク併設オフィスチェアの背後には観葉植物のひとつでも置けるような気がしてくる(着席する人には不親切だけれども!)。
他にもここにも何か置けそうな気がしてくる、それともこっちに?あっちに?1マスの四角形に守られている/閉ざされているわたしたちは幸いにしてLoooMsの部屋を埋めることはできないが、その空白が妙に気になって仕方がなくなってしまったあなたは、もう既に戸口にたたずんでいることになる。なんの戸口か。その出口さえ定かならぬ過剰の美学の戸口に、である。
〈参考文献〉
松田行正『眼の冒険』(筑摩書房).